――本日営業

西澤保彦さんのうさこ/ウサコシリーズの登場人物を拝借して。


 どうして殺すのだろう、相手が気に入らなければ関わらなければ良いじゃないか、愛しているから殺すとか仕方なく殺すとか、殺した後の方が大変じゃないのかと考えても僕には理解できないし理解しようとも思わないし、そういうことなのだと適当に見切りをつけて僕の世界には微塵も影響を及ぼさないことを、誰のためでもなくそれこそ一瞬の後に忘却することを繰り返し、これからもそれは変わらないことだと思っていた。
 そう、思っていた。
 僕は、殺してしまった。
 人を、殺した。
「ウサコ……」
 一度だけ目を閉じ、呟いた声は僕の耳にしか入らず、誰にも聞かれることなく、ずっと呼べなかった彼女の名前は静寂に解け、もう二度と振り向いてくれる機会も失われてしまった。
「さよなら……」
 夜の体温のためだろうか、しばらくの間、それは振動していた。


「この前は、何だったか、……くしゃみ男の話はしたか?」
 思案顔のボアン先輩の問いに、タカチがロングスカートの裾を直しながら悠然と答える。私は面白い話を所望なのよ、とでもいうように、実際そうなのだが、従者を傅かせる女王様然としている。まあ、冗談だけれど。
「ええ」
「そうか。うーん……」
 ボアン先輩は思案顔を続ける。
「くしゃみ男?」
 新しいお酒を運んできてくれたタックの問いに、タカチがうっとうしそうに答える。
「キャンパスで人のくしゃみを撮影していた人」
「あ、前話してた……」
 少しうろたえながらタックが返す。
 くしゃみ男。安槻大学のキャンパスに一時期出没し、人のくしゃみを撮影し続け、いつの間にかいなくなっていた。目撃者は多いにも関わらず、タック以外はタカチでさえ知っていたくらい、人のくしゃみを撮影する理由も用途も結果もすべて謎に包まれていて、あたしたちの話のネタになって好き勝手妄想したのだけれど、これに関する話はまたいずれ。
「なら、あれだ、柑橘」
「腐ったみかん」
 ボアン先輩が言い終わらないうちに、タカチが言い放つ。
「これも話したか……」
 腐ったみかん。これも同じくキャンパスに一時期出没し、香水といったものではない、柑橘系の匂いをこれでもかと振り撒く、男のことだ。これに関する話もまたいずれ。
「そうだ、ウサコはどうだ? 何かないか?」
「あたしですか? うーん、そうですね……」 
 ちなみに、あたしの名前は羽迫由起子。通称、ウサコ。
「じゃあ、先日、友達から聞いたことですが……」
 とある土曜日の夜。あたしたち、あたし、タカチこと高瀬千帆、タックこと匠千暁は、ボアン先輩こと辺見祐輔の家に集まって飲んでいた。


「何曜日だったかなぁ……まあ、平日なことは確かで、朝、その人が出かけようと玄関の扉を開けたら、袋に入ったどんぶりが置いてあって」
 話を聞いた日から辿ればいつかは見当がつくけれど、ここでは大した問題でもないし、酒の席の話なのだからこのくらいなら脚色しても構わないだろう。
「スーパーで貰えるような中くらいの透明な袋だったから袋を開けなくても中身が分かったみたいなんだけど、二つほど重なっているようで、それ以外にも何か、えーと、箸のようなものも入っていたみたい」
 誰も口を挟まないけれど、あたしの話自体はすぐ終わるので、その方が助かる。
「それで気になることは気になるけれど、不気味だったし、時間もそんなになかったから、そのままにして出かけたらしいの」
 確かに、興味を惹かれることに、すぐに手を出す人ももちろんいるだろうけれど、その人はそうではなかった。
「で、その日の夜帰ってきたら、無くなっていていたんだって」
 これで終わり。
「…………」
「…………」
「…………」
 三者三様に沈黙を保っていたが、あたしも沈黙すると、先輩とタカチは反応を示した。
「それで、どうなったんだ?」
「終わり?」
「うん」
「そう……」
 あたしの話はコップ一杯も持たなかったようで、それぞれ、何だか拍子抜けしたというか、まあタックは元からそんな感じだけれど、ビールの苦味に驚いたような、そんなことはこの人たちに限ってないことなんだけれど、そんな顔をしている。
 うん、これで終わり。だから、考えることは。
「そのどんぶりが何だったかを」
「考えろ、と」
「うん」
 すぐに切り替えたようで、それぞれ、考え始める。さて、口火を切るのは誰だろう。


 僕が彼女と知り合ったのは、自分も彼女も通う大学の集まり、誘ってくれた友人含め、それなりに知っている人もいたからコンパというよりは飲み会でのことだった。
 開始時間の五分ほど前に、大学近くの店を訪れ、集まっていた人たちにとりあえず会釈を済ませ、店に入る。集まっていた人たちの中に髪を三つ編にしたあどけない笑顔の、どう見ても中学生くらいにしか思えない場違いな女性がいたのだが、それが彼女との出会いだった。
 僕はあまり他人に関心を抱かないというか、積極的には関わらず、どうも物覚えが悪いこともあり、人付き合いはある程度限定、狭く深くしていたのだが、彼女だけは一目見た瞬間に、名前も忘れることはないだろうと思った。キャンパス内には、そこらの芸能人何かより有名な人がいるのだが、彼女はその人たちと付き合いがあるようで、さすがにその人たちのことは知っていたものの、それこそ関わろうとはしなかったから、彼女のことを知ったといえるのはこのときが初めてだった。
 そして、彼女は違った。
 僕は、彼女に捉えられてしまった。
 羽迫由起子。通称、ウサコ。
 僕は、彼女と友達になった。
 僕は、彼女に恋をした。


「出前のやつだったんじゃないのか」
 ボアン先輩、そんな身も蓋もない。だったら、話しませんよ。なんて。
「まあ、誰もが通る道、ということでひとつ」
「でも、その人は覚えがないんですよ?」
「隣の人はどうなんだ?」
「確認はしてないみたいですけれど、玄関を開けたとき、正面にあったみたいですから」
「正面? 確かにそれなら出前はないか……、いやわざわざ置いた、落としたことも考えられ……ないです、はい……」
「その人はアパートに住んでいるのよね。アパートに住んでいる人、遊びに来た人が落とした、忘れていったことも考えられるけれど、それじゃあつまらないから、置いた人に何らかの意図があったとして」
 ボアン先輩の次はタカチ。実際が、出前だったり、忘れ物だったりしても、あたしたちにはどうでもいいのだ。話をしてくれた人だって、数日は気味悪がっても、その内、忘れることだろう。実際、話を聞いた時だって、ちょっと不思議な話という感じだったし。
 例え、ごく日常のつまらない話でも、真剣に考えているように少なくとも振舞ってくれるし、おもしろくしてくれる。この関係がとても心地良い。
「そうね、どんぶりはどのくらいの大きさだったのかしら?」
「大きさは……うーん、どんぶりとしか聞いてないから、茶碗でないことは確かだと思うけれど」
「まあ、そこは個人によるものとして……、箸もあったし、他にも入っていたのよね?」
「うん、そう言ってた。箸もあったし、他にも入っていたって」
「じゃあ、決まり。きっとプロポーズだったのよ」
「プ、プロポーズ!?」
 ボアン先輩が大げさに驚く。本気かも。あたしも驚いた。
「ほら、夫婦茶碗あるでしょ。それのどんぶり版よ」
「どんぶり版て……」
「直接渡さなかったのはまだ考える余地があるけれど、気がついて欲しかったのよ。本人たちには分かり得る事情があったんじゃないかしら」
「はは……」
 ボアン先輩は渇いた笑み。あたしも言葉が出ない。
「ということは……、失敗したの?」
「そう考えるのが妥当ね。きっと何もなかったから置いていった方もその日の内に回収したのよ」
「…………」
「簡単だけれど、続けても穴がでるかもしれないし、私は以上」
 タカチが自分の考えを言い終え、タックの方を向く。
「ねえ、タックはどう……何だ。さっきから、いやに静かだと思ったら。もう寝てる」
「おいおい。こら、タック。おい、起きろ」
「あ、あい」
 ボアン先輩に手荒く揺さぶられたタックは、頭だけ起こしたものの、まだ目が完全に開いていない。あ、デジャビュ
「あい、じゃない。もう、おねんねかよ。まだそんなに飲んじゃいないだろうが」
「いやー、それが、昨夜、あんまり寝てないもんで」
「今は眠ってる場合じゃないぞ。一緒に考えろよな」
「え、えと。何……でしたっけ?」
「って。うおい。聞いてなかったのかよ、おまえはっ」
「あ、いや。はい。聞いてませんでした」
「そうそう、前も居眠りしながら聞いてたもんな……って、聞いてないのかよっ」
「あ、はい。すみません」
 あらら。


 いつものように話題があれこれ脱線しているうちに、やがて夜が明ける。日曜日の朝。ボアン先輩とタックは畳の上にひっくり返って、ともに盛大な鼾をかいている。
「ねえ、ウサコ? どんぶりの話は他の人にもしたの?」
 まだ眠っていないあたしに気づいたタカチは、あたしを二階の廊下に誘導した。
「え!? どうして?」
「やっぱり……」
 やっぱり、タカチは気づいた。気づいていた。
「どんぶりが置かれていたのは、ウサコのことだよね」
「うん」
 あたしは正直に答える。隠したってしょうがない。心のどこかで気がついて欲しかったことも隠せない。
「心当たりもある、と」
「うん」
「それは置いた人もその理由も?」
「ううん、理由なんて大して考えなかったし、誰が置いたかも……昨日のニュースで……知って……それから、タカチの話も……」
「そう」
「うん……」
 タカチは、あたしを引き寄せ、あたしが飛び込んだのかもしれない、しばらくの間、抱きしめ、あたしは身を任せていた。


 土曜日の未明、市内の大学生と思われる女性の死体が発見され、所持品からすぐに身元が確認された。警察は、事件、事故また遺書らしきものは見つかっていないが、自殺の可能性もあるとして捜査を進めている。


・あとがき
 一部、『黒の貴婦人』、『スコッチ・ゲーム』より引用。タックはお休みということで。ネタがなかったとか面倒だったとかいうのが正直なところ。まあ、あくまで、雰囲気を、ということでご容赦を。
 このまま終わっても不自然ではないようにも、続けられるようにもしたつもりですが、どうでしょうか。前者の場合には、僕=女子学生で自殺。後者の場合には、うさこシリーズでも良いし、ネタ(どんぶり)的には美少女代理探偵でも良かったので、僕=男性で殺人事件に発展させても良いかな、と。